コーヒー


「あ、」

気づいた時にはもう手遅れだった。
ガシャン。
聞きなれた音と共に、機械的に落とされた缶が重力に押されて地に落ちる。困ったなと思いながらも冷えた手に心地よい温度のそれを拾い上げた。ついさっきまで点灯していたランプの位置通りのそれはごく普通の缶コーヒー。ランプは少しの間だがしっかりと存在を主張していたので、もしかして、という気は少しも起きなかったが、やはり実物を見せ付けられると間違いなく現実味が増して少し哀しくなった。
それでも仕方がないことだから一息ついて、待ち合わせ場所である図書館近くのベンチに腰掛けた。昨日切ったばかりのせいで深爪気味の指でプルタブをこじ開ける。吐いた息は白い。もう暦の上では秋なのだが、少し前まで冷房器具に頼っていたとは思えない程の寒さだった。
口に含むと喉から身体の奥へ熱がじんわりと伝わっていった。それと同時に口内に広がる苦味にまた一息つく。先ほどのは諦めめいたものだったが、今度は安堵に近かった。決して甘くはない筈のこの味にどこか安心して、手放せなくなったのはいつからだっただろうかと思考を巡らせたその時だった。

「相変わらず早いな、大石」

突然頭上から声が降って来て反射的に顔を上げる。丁度頭の中に思い描いていた顔がそこにあって驚いたが、それ以上に自分の名を呼ぶ低音に背筋がぞくりとした。

「ああ、手塚。おはよう」

そうだ。手塚も飲んでいるからだ。

夜更かしをするようになって、コーヒーを飲む習慣がついた。それは多分手塚も同じだろうけど、それから一緒にいることが多くなって、手塚もコーヒーを飲んでいて、でも、それだけだ。
………同じものを飲んでるだけなのに、どうかしてる。
まだ一口しか飲んでいないから当然だが、まだ缶の中には黒い液体が満ちていた。どうしたものかとプルタブの小さな隙間から覗く黒を見つめる。影になっていてそんなことがある筈ないのに、そこには嫌な自分が映っているような気がして自然と缶を握り締める手に力が入った。

「おはよう…どうかしたのか」

いつもとなんら変わらない筈のやり取り。なのに、自分の中にある、コーヒーのように黒い感情まで全部見透かされてしまうんじゃないかと不安になる。
手の中で持て余しているうちに、時間のせいか体温のせいか、缶はもう温くなっていた。

「いや、コーヒー買ったんだけど、胃薬忘れちゃってさ。どうしようかと思って」
「そうか…」

手塚は一言「待っていろ」と言い残して数メートル先の自動販売機へと歩いていった。遠ざかる背中を見つめながら、俺は三度目の溜息をつく。それは諦めでも安堵でもあってそのどちらでも無かった。
もう部活は引退してしまったから休日は大体模試か勉強かの二択で、模試が無いときは図書館で、というのが最早暗黙の了解になっていた。そしてこの状態に甘えている。短い逢瀬に胸を躍らせている。そんなものには何の意味も無く、それも本当に短い間のものだと分かっているのに、だ。友の最上級が親友だというのならそれは満たしているのかもしれなかったが、それ以上になることは叶わずそれ以下になってしまうことも望んではいなかった。だから俺は親友以上の地位を諦めたし替わりに親友の地位を守ることで安堵していたが、その状態に不満はなかったから俺は諦めも安堵もやめてしまった。

「俺のと替えてやる」

戻ってきた手に握られていたのは恐らくはあったかいお茶。いきなりのことで手塚が最初何を言いたいのかがわからなかったが、眼前に缶を差し出されることでその意図を漸く理解する。緑茶なのがなんとも手塚らしい。

「でも、飲みかけだし、悪いよ。それに俺のはもう冷めてるし」

折角胸中の思いを抑えて上手く笑えたと思ったのに、手塚の額にはこれでもかという程に不機嫌な線が浮かんでいた。その顔まま手の中の缶の蓋を開いて一口乱暴に流し込む。

「これで問題ないだろう」

文句を言う間もなく手からコーヒーを取り上げられて、替わりに緑茶を押し付けられた。
こんなことで胸が熱くなる自分がいる。まるで玩具を買い与えられた子供みたいだ。本当にどうかしている。

「行かないのか」

呆然とその場に立ち尽くしていた俺に届いた手塚の声は既に遠くの位置からのもので、手元の缶と手塚とを見比べる。缶の中に存在する液体も映り込む人影も黒くは無かった。それだけでどこか救われた気持ちになった。

「あ、あぁ、今行く」

俺はそれをぐいと一気に煽った。
コーヒーでない筈なのに、流し込まれたそれは酷く苦かった。


2008.10.1~2009.1.24 コーヒー
片想いが燻っている大石。淡白にしたかったんですがドロドロ。
それにしても大塚っぽいなこれ(爆)。